ミズーリを「アメリカの真ん中」と呼ぶと、少し地味に聞こえるかもしれない。
しかし、この州の真ん中らしさは、何もないという意味ではない。
むしろ逆である。
ミズーリには、アメリカのいくつもの要素が中間地点で交わっている。
東へ行けばミシシッピ川とセントルイスがある。
西へ行けばカンザスシティがあり、ジャズとバーベキューの夜がある。
南へ目を向けるとオザークの湖と森がある。
旧道をたどればRoute 66が州を横切る。
ハンニバルでは、少年時代と川が文学になる。
ミズーリは、中心にあるから薄いのではない。
中心にあるから、いくつものアメリカが重なっている。
「真ん中」は、空白ではなく交差点である。
日本語で「アメリカの真ん中」と言うと、海岸の華やかさから遠い場所を想像しやすい。
ニューヨークでもロサンゼルスでもない。
フロリダの海でも、アリゾナの砂漠でもない。
だから何となく、特徴が薄い場所のように感じるかもしれない。
しかしミズーリを歩くと、その見方は変わる。
真ん中とは、空白ではない。
ものが通る場所である。
川が通り、道が通り、人が通り、音楽が通り、物語が通る。
通り過ぎるものが多い場所には、必ず記憶が残る。
ミズーリの強さは、まさにそこにある。
一つの巨大な記号だけで勝負しない。
そのかわり、いくつもの線が交わる。
水の線、道路の線、鉄道の線、都市の線、文学の線。
それらが州の中で重なり、アメリカの中間地点らしい深さを作っている。
ミズーリの「真ん中」は、空白ではなく、川と道と町が交差する場所である。
セントルイスは、東と西の境界に立つ。
セントルイスは、ミズーリの東端に近い都市でありながら、
アメリカの中間性を象徴する場所でもある。
Gateway Archが示すのは、西への入口である。
つまりセントルイスは、東に属しながら西を見ている都市だ。
ここにはミシシッピ川がある。
川は、境界であり、道であり、記憶の線でもある。
その水際に立つアーチは、アメリカが西へ向かう想像力を空に描いている。
しかし街そのものは、記念碑のように単純ではない。
古いレンガ、ブルース、野球、Forest Park、Old Courthouse、移民の記憶。
セントルイスは、東から西へ向かう物語の入口であると同時に、
その物語の複雑さを抱えた都市でもある。
ここに、ミズーリの「真ん中らしさ」が最初に見える。
カンザスシティは、西側の夜を持っている。
州の反対側へ行くと、ミズーリは別の顔を見せる。
カンザスシティである。
セントルイスが川とアーチの都市なら、カンザスシティは音と煙の都市だ。
ジャズ、バーベキュー、Union Station、噴水、18th & Vine。
カンザスシティは、ミズーリの西側にあるもう一つの重心である。
東のセントルイスと西のカンザスシティ。
この二つの都市が同じ州にあることが、ミズーリを面白くしている。
セントルイスは、西へ向かう思想を記念碑として見せる。
カンザスシティは、内陸都市の夜を音と食で見せる。
一つの州の中に、この二つの都市感覚がある。
だからミズーリは、単純な中西部ではない。
東西の性格が、州の中で引っ張り合っている。
カンザスシティは、ミズーリの西側に音、煙、夜の重心を作る。
オザークは、真ん中にある休息を見せる。
ミズーリの真ん中らしさは、都市だけではない。
オザークへ向かうと、州は湖と森と洞窟の顔になる。
海ではない休暇。
内陸で水辺に泊まり、森を走り、洞窟へ入り、ブランソンで夜の明かりを見る。
これは、沿岸部のアメリカとは違う休み方である。
海へ開けていないからこそ、湖が大切になる。
大自然の圧倒的な記号ではないからこそ、入り江、桟橋、キャビン、洞窟、家族旅行が効いてくる。
オザークは、ミズーリが「通過する州」ではなく「滞在する州」でもあることを示す。
中間地点には、人が通るだけではない。
休む場所もある。
Route 66は、真ん中を走る記憶である。
アメリカの真ん中を考えるとき、道は欠かせない。
ミズーリを横切るRoute 66は、その象徴である。
セントルイスからスプリングフィールド、ジョプリン方面へ。
ネオン、洞窟、壁画、モーテル、ダイナー。
Route 66は、沿岸から沿岸へ向かう夢の一部だった。
しかしその途中にあるミズーリでは、道そのものが記憶を残している。
古い看板、街道沿いの店、壁画の町、洞窟の広告。
それらは、アメリカが車で移動した時代の証拠である。
ミズーリが「真ん中」に感じられるのは、こうした道の記憶があるからだ。
ここは最終目的地ではなく、途中である。
しかし、途中には途中にしかない豊かさがある。
立ち止まる理由が、道端に残っている。
Route 66は、ミズーリの「真ん中」を通過点ではなく、記憶の回廊に変える。
小さな町と裁判所広場が、アメリカの内側を見せる。
ミズーリを本当に「アメリカの真ん中」と感じさせるのは、
大都市や有名な道だけではない。
小さな町、Main Street、裁判所広場、古い店、教会、橋、学校。
そういう場所に、内陸アメリカの生活感が残っている。
裁判所広場は、観光地として派手ではない。
しかし、その町が自分をどう中心化しているかを見せてくれる。
広場の周りに店があり、通りがあり、公共の建物がある。
そこには、アメリカの地方都市の基本的な構造がある。
日本語読者にとって、こうした町は最初少し地味に見えるかもしれない。
しかし、そこにこそ「真ん中のアメリカ」がある。
見せ物としてのアメリカではなく、生活の形式としてのアメリカである。
ハンニバルは、小さな町が大きな文学になる場所である。
ハンニバルは、ミズーリの中間性を別の角度から見せる。
ここは小さな町である。
しかしミシシッピ川があり、マーク・トウェインがいる。
その二つによって、町の記憶は世界文学へ広がった。
小さな町の少年時代が、川によって大きくなる。
白い柵、洞窟、Main Street、川船、向こう岸。
それらが文学の中で生き続ける。
ハンニバルは、ミズーリの「真ん中」が決して無名の空白ではないことを示している。
アメリカの中心には、大都市の名前だけではなく、小さな町の記憶もある。
それが、ミズーリを深くする。
ハンニバルは、小さな町がアメリカ文学の中心になり得ることを見せる。
ミズーリの真ん中らしさは、対立ではなく同居である。
ミズーリには、いくつもの対比がある。
セントルイスとカンザスシティ。
川と道。
都市と小さな町。
湖の静けさとRoute 66のネオン。
ジャズの夜とハンニバルの少年時代。
しかし、それらは対立しているだけではない。
同じ州の中で同居している。
この同居が、ミズーリの真ん中らしさを作る。
一つの顔に絞れない。
だからこそ、旅する価値がある。
沿岸の州は、しばしば強いイメージを持つ。
それに比べると、ミズーリは説明に時間がかかる。
しかし、その時間が大切だ。
すぐにわかる州ではなく、見ていくほど層が出る州である。
ミズーリは、「中心」という言葉を地理から文化へ変える州である。
日本語読者にとってのミズーリ。
日本からアメリカを見るとき、どうしても海岸の都市や有名観光地に視線が集まりやすい。
それは自然なことだ。
しかし、アメリカを深く知るには、内陸の州を見る必要がある。
ミズーリは、その入口としてとても良い。
セントルイスで西への思想を見る。
カンザスシティで夜の音と煙を感じる。
オザークで内陸の休暇を知る。
Route 66で車社会の記憶をたどる。
ハンニバルで川と少年時代の文学を歩く。
これらをつなげると、ミズーリは「アメリカの真ん中」になる。
それは地図上の中心ではなく、いくつものアメリカが交わる場所という意味での中心である。